文部科学省の「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」が公表された。2022年度に秋田県内の小中学校で「不登校」だった児童・生徒は1566人、全国では29万9048人だった。また、いじめの認知件数は秋田県が4959件、全国は68万1948件だった。文科省の統計によると、小・中学校の不登校の原因は「無気力・不安」(51.8%)、「生活リズムの乱れ、あそび、非行」(11.4%)、「いじめを除く友人関係」(9.2%)、「親子の関わり方」(5.0%)とある。
だが、本当にそれが原因だろうか。子どもたちの「無気力・不安」の背景を、私たちは正しく把握しているだろうか? 3人の当事者の声に耳を傾けてみた。
3人は先月、秋田市で行われた座談会で不登校の経験を語った。座談会で話者をつとめたKさん(20代)は、小中学校のときに不登校を経験した。
Kさんにとって学校は「地獄だった」。
上がいじめるのを見て、下もいじめ始める
入学してすぐに上級生からいじめられた。
「上がいじめると、下はそれをまねし始める。大人になった今から考えれば、そうでもない出来事だったのかもしれない。でも子どもは、それ以外の社会を知らないので」。地獄であっても、通うしかなかった。
クラスにはいつしか「カースト制度」が生まれていた。
「何より地獄だったのは、カーストの上位はカーストの下をいじめ、中間層はそれを無視して、カースト下位は下位同士でいじめ合うこと。誰かをいじめて、自分がいじめの標的にされるのを逃れる。標的を自分以外につくらないと、逃げられないから。私も(自分以外の標的を)つくりました」
「正義」を押し付ける先生
担任の先生の記憶も、Kさんにとっては「地獄のひとこま」だった。
子どものころ、野菜や、においのする食べ物、刺激の強い食べ物が苦手だった。食べられずに残していると「一口でいいから食べなさい」と言われた。だが、口に入れると吐いてしまう。仕方がないから食べ残したものをティッシュに包んでポケットに入れた。数日後、それを見つかって先生に平手打ちされた。
学校へ行けなくなり、自室にこもるようになった。
そんな中、専業主婦だった母が外で仕事を始めた。Kさんは、ほっとした。
「母が家にいないと、心が軽くなった。母がいる間は『学校に行かなきゃ』『自分は親に苦労させている』とずっと思っていたから」
食が細り、1日2食は食べるが、3食目は食べられなかった。「不登校をしている自分のことが嫌すぎて、ごはんを食べられなかった。3食は、恐れ多くて。親への遠慮というより、やること(登校)をやっていない自分への罰だった」
ある日、クラスメートからKさんあての「寄せ書き」が届いた。読まずに捨てた。
「寄せ書きの中には、いじめっこも入っている」。学校側は、よかれと思ってやったのかもしれない。だが、やられた側の気持ちがなぜ分からないのだろう、と思った。
よかった記憶もひとつある。
「保健室に登校していると、たまに校長先生が来て『バレーやるか』『卓球やるか』『きょうはバドミントンやるか』って、相手をしてくれた。そうやってときどき来てくれることが、心地よかった」
クラス替えなし「逃げ場がなかった」
もう一人の話者であるHさん(20代)が通っていた小中学校は、少子化でクラス替えがなく、小中ずっと同じメンバーがクラスメートだった。
クラスの中で「仲良しグループ」が決まると、そのグループの構成員が変わることはない。「グループの中でいざこざがあったりすると、もう、逃げ場がなかったです」
Hさんは、グループ内で生き残りたい、と思った。
「グループにいたいと思って、共通の話題を探して『(立場が)下の子』の陰口を言い合う。その輪の中に、自分もいました。陰口のネタを探すのも含めて、そのグループにいるために頑張った。(Hさんを心配した)先生は『ほかの子と一緒にいたらどう?』と言ったけれど、そういうことじゃない。ほかのグループには、行けない」
誰かをいじめるその裏で、Hさん自身も、悪く言われている。グループの状況はいつまでも変わることがなかった。最終的にHさんは、そのグループからも教室からも、離れる選択をした。
「天国」だった学校外の居場所
Hさんの保護者が中学校に相談し、別室に登校できるようになったとき、ショックだったことがある。
給食の時間、いつもの養護教諭ではなくクラスメートがHさんの食事を運んできた。その子は、不登校のきっかけになるグループの中心メンバーだった。先生に「仲が良い」と思われていたのか、たまたまその子に頼んだのかは、分からない。けれど、そのときのショックはずっと残っている。
中学時代は2つのフリースクールに通った。
一つは勉強中心のところ、うち一つは野外活動が中心のところ。野外活動中心のフリースクールでは「人間関係のリハビリ」をしている感覚だった。そこには「特定のグループ」は存在しなかった。来る子もいれば、来ない子もいる。「スクールとは付くけど学校のような感じはなくて、ギャップがありました。メンバーは常に総入れ替えなので、気持ちの切り替えも含めて、天国に近いところだった」
しかし、「傷」は卒業後も残った。
高校生のとき、不登校のきっかけになったグループの中心メンバーを町で見かけた。Hさんは会うのが怖くて、すぐにその場を去った。
不登校の間、Hさんは「何にもしていないのに、生きていてごめんなさい」と思った。
そして何年たとうとも、自分の方が相手を避けなければいけない。
「いじめをしていたのが、特定の運動部の子だった。その競技まで嫌いになりました」
「狙われるのが怖かった」
中学時代に不登校を経験したAさん(20代)。きっかけはいじめだった。
Kさん、Hさんと同じく、Aさんもからかいに「加担」した経験がある、と語った。
「狙われるのが怖いから、誰かをからかって周りが笑っているとき、私にはそういう気持ちはないのに、その場のノリになって笑ってしまった。後から『ごめん』と謝ったりしたけど、言ってしまったから(消えない)」
「あなたにも原因があるのでは?」
保健室に登校したとき、給食を運んできた先生から「一度職員室に行って、担任の先生に顔を出しなさい」と言われた。もともとAさんへの態度がきつかったという担任は「あなたの対応をしていると疲れる」とAさんに言った。
家族の圧にも苦しんだ。
いじめについて学校側と話し合っているとき、母は「あなたにも原因があったんじゃないか」と言った。「いじめた相手に対して気をつかっていたのか、事を荒立てたくないと思ったのかは分からない」
祖父母はAさんが不登校になったとき、「学校へ行け」と言い、祖母はAさんを家から引っ張り出そうとした。「祖母自身が、満足な教育を受けられなかったと言っていて、だから私への思いがあったのかもしれない。幼いころ、ちゃんとしていないと、祖母にたたかれたり、小屋に閉じ込められたりしたこともありました」
学校も家も、安心できる場所ではなかった。
「放っておいてほしかった」
通信制の高校に通い始めたとき、ようやくAさんの苦しみは終わった。
そこで出会った友人との関係に救われたことが大きい。
家族と先生には、いまだに複雑な思いがある。
今のような学校は、なくなった方がいいと思っている。
学校に行けなくなったとき、大人にしてほしかったことは?
「放っておいてほしかった。放置して、時々一緒にゲームで対戦してくれた父の対応が、一番、楽でした」(Aさん)
学校はローカルルールの集合体
座談会の進行役をつとめた教育社会学者、鈴木翔さん(東京電機大学准教授)は「学校はローカルルールの百貨店」と表現する。「そこにしかない謎のルールが当たり前に使われていて、誰もが、それに疑問を感じていない場所。よく『学校は社会の縮図』なんていうけれど、僕はそうは思わない。学校は『ローカルルールの集合体』だ」
鈴木さんは「人は基本的に合理的だと思う行動をする。学校が苦しい、行くことができない、だから行かない選択をするという行動は、合理的だと思っている。子どもたちが本音を語れる場がもっとあれば『意味のないルール』が見えてきて、楽になるのではないか」と語る。
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3人の話を聞き終えたとき、私が思い浮かべたのは大人が属するさまざまな「組織」のことだった。子どもが通う学校と、大人が通う組織。二つは重なり合うと感じた。
学校になじめなかった私
私は高校時代、クラスになじめず1週間ほど学校を休んだことがある。1週間後には決死の思いで登校したが「教室にいるのがつらい」「居場所のない自分が恥ずかしい」という感覚は常にあった。あのころには二度と戻りたくない。
しかし、本当の意味で学校から「離れる」という発想を、当時の自分は持たなかった。学校へ行かないという選択肢自体が私には存在しなかった。30年後、そんな私が会社を半年休み、最後には退職する選択をした。
それまでは休職も退職も、自分の人生の選択肢には存在していなかった。「それは逃げではないか」「自分に原因があるのでは」という考えにとらわれていた。しばらく苦しんで、ようやく自分は組織で生きることが難しいと悟ったとき「離れる」という選択肢がすっと目の前に現れた。視界が一気に開けるようだった。
そういう自分が3人の話を聞いて思うことは、今いる場所が自分には合わない、苦しい、と気づくことができたなら「離れる」という選択肢と権利があることを、子どものときから知っていてほしいということだ。何年も何年も苦しむ前に。
あなたにとって学校(または今いる場所)はどんなところですか。
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座談会は教職員や保護者でつくる「秋田県母と女性教職員の会」が2023年9月9日に開いた分科会の一つで、約20人が参加した。〈画像作成者 picture cells〉